勤労学徒採掘関係者
理研希元素工業所第806工場
写真:石川町民俗資料館より
日本でも原子爆弾の製造は可能だった。
わが国の原子爆弾(以下原爆)の研究は、昭和16年ころから軍の依頬で、およそ五部門で進められていたが、その全貌について知っているものは、ごくわずかな人に限られていた。
兵器行政本部-①第八陸軍技研研究所-分室(現学法石川高等学校)
(理研希元素工業所第806工場)-石川町
陸軍航空本部(陸軍技術研究所)
②理化学研究所
③東大、東嵯峨根遼吉研究室(ウラン分離研究、電磁分離法)
④阪大、菊地正士研究室(分離器の研究・開発)
海軍技術研究所
⑤京大、荒勝文策研究室(F号研究)
陸軍航空本部は、理化学硫究所(以下理研)の所長、仁科芳雄博士にウラソ爆弾の研究を依頼していたが、2年半余りその研究は進められていなかった。本格的に研究が始まったのは、19年6月からである。陸軍航空本部(技術研究所)は「原子爆弾に関する研究」を理研の仁科研究室に委託した。理研では玉木英彦氏が核分裂の連鎖反応に関する計算を行い、原爆製造の可能性は十分ある、との報告書を航空本部の鈴木辰三郎氏(戦後防衛庁勤務後、明星大教授)を通じて同所長安田武雄中将に提出した。理研の報告書は、「ウラン235の核爆発で黄色の火薬の1万8千トンの爆発力のあること、ウラン235を分裂するためには六フッ化ウランガスを用いて熱拡散(軽いウラン235は上に、軽い237は下になる)方法が適当であること、分離筒は金メッキか銀メッキ。銅でも可能か研究が必要というものであった。
勤労奉仕でウラン鉱採掘をした生き証人の有賀究(きわむ)氏の動画2009年8月9日撮影。
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