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原爆展「トランクの中の日本」より

  • 松本 英一
  • at 2008/7/24 21:26:49
福島県三春町交流館「まほら」:原爆展:「トランクの中の日本」より:7月22日~24日
 

この少年は夜のうちに死んだ弟を、その朝、私が写真を撮っていた火葬場に運んできた。人々がその小さな亡骸を少年の背中から下ろし灰の上に置く間、彼は顔を強張らぜ直立不動で立っていた。彼は決して火葬行程を見なかった。

私は彼を抱き締め、その悲しみを感じてあげたかったが、できなかった、全てを終えると彼は静かに立ち去っていった。

 
 
 
ジョー・オダネル氏略歴
 
 1922年5月、アメリカ・ペンシルバニア州ジョンズタウン生まれ。1941年6月、ペンシルバニア州ジョンズタウン・ハイスクール卒業後、ジョンズタウン・デイリー・トリビューン社で暗室係として働き、その年の12月にアメリカ合衆国海兵隊に志願する。
 1942年2月より従軍カメラマンとして.ボストンのマサチューセッツエ科大学などで現像の技術を学び、フロリダ州ペンサコーラをはじめ、国内で航空写真撮影の訓練を受ける。
 1945年9月、占領軍のカメラマンとして広島・長崎その他、空爆による日本の都市の被災状況を記録する任務を与えられ.終戦直後の日本へ上陸した。その後、7ヵ月間、軍の記録写真とするために広島・長崎など焦土と化した日本各地を撮影した。
 1946年3月帰国し除隊。私用力メラで撮影したフィルムを自宅へ持ち帰り.その見るにたえない悲惨な写真をトランクにしまう。
 1949年7月より、アメリカ合衆国情報局に籍を置き、ホワイトハウス付きのカメラマンとしてトルーマン・アイゼンハワー・ケネディ・ジョンソン・ニクソンの5代の大統領に仕えた。「老兵は消えゆくのみ」のマッカーサー「私には夢がある」と熱っぽく語ったキング牧師、ケネディ暗殺の後、大統領機から血に染まったピンクのスーツで降り立つジャクリーン夫人など.数々の歴史的瞬間をカメラでとらえた。
 1968年8月、健康上の都合により退職。1989年、反核を訴えて作られた炎に焼かれるキリスト像に心打たれ、屋根裏にしまい込んだままのトランクを開ける。
 1990年8月、原爆写真展をテネシー州ナッシュビルで開く。勇気ある行動と評価される一方、原爆を正当なものと教育されているアメリカ人からは非難される。
 1995年夏にスミソニアン博物館で企画されていた写真展は、アメリカ国内の在郷軍人の声、マスコミの論調などによってエノラ・ゲイ以外の展示が中止に追い込まれる。その後.この写真雇を世昇で開催し.歴史の証言者として講演活動を続ける。日本でも10年以上にわたり、「ジョー・オダネル写真展トランクの中の日本」が開催される。
 2007年月9日、〈しくも長崎の原煽授下の日、アメリカのテネシー州ナッシュビルで86歳の生涯を閉じる。同年8月長崎の原水爆葉止世界大会で同写真展が開催される。長嶋原爆資料館に「焼き場に立つ少年」の写真が寄贈される。10月、日本のテレビ番組で特集が組まれ『トランクの中の日本』が紹介され、再びび話題を集める。
(小学館「トランクの中の日本」所収)
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